ギュッと五臓六腑

愛が偽善的で自虐的だった僕らの心をすっかり変えてしまったよね

ビルボードライブ東京でAl McKay Allstarsのライブ観てきた。アル・マッケイ・オールスターズと読みます。アル・マッケイ=元Earth, Wind & Fireのギタリスト、が愉快な仲間たちと共にEWFのコピーバンドとして活動しているグループ。アル・マッケイさん、EWF戻ってギター弾いたらいいのでは?と思うけど、風の噂では本家がサウンド面を追求する一方、アル・マッケイ・オールスターズはグルーヴ面を追求しているとかなんとか。でも本家EWFの生演奏聴いたことないからどうとも比較できない。サウンド面とグルーヴ面ってどう違うのかもわからない。

大好きなSeptemberを生で聴きたくて聴きにいって結果マジ泣きしてしまった。周りめちゃくちゃ踊ってるのに私だけひぐひぐ泣いてた。フロアを見渡しながら、きっと80年代の、EWFが大ヒットしたあのディスコブームってやつを実体験してきた年配のお客さんもいるんだろうなぁと羨ましく思ったり、平日の夜だし仕事で疲れた人もいるだろうに音楽は万人に等しく笑顔のチャンスを与えてくれるなぁと感慨深かったり。

この世界の一人一人になんらかの大事な意味を持つ"9月21日"が存在するはずだから、Septemberという曲の持つ魔法はいつまでも消えることがない。それは例えば、家族や友人や恋人と心が通じ合えた日とか、子供が産まれた日とか、それとも家への帰り道に偶然目に留まった夕日がりんご飴みたいにおいしそうだった日とか、初めてチョコボールの金のエンゼルを引いた日とか、どんなに他人から見ればくだらない理由だったとしても本人には絶対的に価値のあるその日を讃えるために、"バーディヤ"のあのリズムで、数えきれないくらいの何本もの手が空にかざされるのだ。モーリス・ホワイトが死んでしまった後のこれからの時代にも。

モーリス・ホワイト本人がいるわけじゃないし……って渋ってたけど観に行ってよかったなあ。アル・マッケイ・オールスターズのステージ、文句なしに楽しかった。

君は覚えてるかな、9月21日の夜のこと。

モーリス・ホワイトが死んだ。

療養中なのを知っていながらもいつか彼の立つEarth, Wind & Fireのステージを観たいと淡い期待を抱いていたので悲しいけど、悲しさよりも今は「なんで私はモーリスが元気な時代に間に合うようにもっと早く生まれてこなかったんだよ」という自分への理不尽な怒りの方が大きい。エリザベス・キューブラー・ロスの死の受容のプロセスでいうと(自分の死についてのプロセスだろうけど他人の死に対しても適用できると思うんだよな)第二段階。おそらく第三段階の「取引」は私にとって2月の末に行われるアルマッケイ・オールスターズのライブで彼らの中にモーリスの影を探すこと、で、やっぱりここにモーリスはいないもんなあって第四段階を過ごして第五段階に移るはず。


ジャズマン菊池成孔Earth, Wind & FireのSeptemberについて語った時の数分間がクールなことこの上なくて時々狂ったようにリピートする期間がある。


菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から

えー、特にこの歌詞の中で、…あのなんつったらいいんですかね…祈りのように何度も繰り返される「Ba de ya」という言葉の意味は何なのかは、長い間ファンの間で取り沙汰されてきました。アラブ首長国連邦のアルフジャイラという海岸線上の国にある、世界最古のモスク・バディアモスクというのがあるんですけど、そのイスラム人ですね、その名前だという説。伝説の魔法使いの託宣であるという説。メンバーの娘の名前であるという説、などなど…。え、しかし最も有力な説は、現在ですね、研究家の間では「単なる衝動的なかけ声だろう」というもので、アタシもそれが最も素晴らしいと思います。

菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から - YouTube

満場一致で「そうだよね!」って拍手できるこの説明の後に歌詞の和訳が朗読される流れにはもう耳を傾けるしかなくない?

胸がドキドキして 夜通しダンスを踊っているうちに
ふたりの魂は いつのまにか同じキーで歌っていたよね

菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から - YouTube

胸がドキドキするたびに菊池成孔さんが朗読するテンポそのままにこのフレーズを思い出してニヤニヤしてしまう。人間の胸って本当にドキドキするものなのよ。

宇宙の宝石箱のような輝きを放つこの素晴らしい曲を、
9月に耐え難いトラウマを持っているすべてのアメリカ人、
そして、この番組をお聞きの、今年の9月を生きるすべての国籍の、
今年の9月を生きるすべての人々…
希望に満ちているであろう、あのジャズバーの学生たち…
懲役太郎さんにも、中山千夏さんにも、
すべての人々に捧げて今週はお別れしたいと思います。

菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から - YouTube


私が初めてSeptemberを聴いたのは2002年、9歳の頃で、菊池成孔さんみたいにクラブで流れてきた~~~~な~んてドラマチックに言いたかったけどそんなことはなくテレビドラマ『続・平成夫婦茶碗』のエンディングテーマとしてだった。


september 続・平成夫婦茶碗 ED

9歳の頃なんて自我あったのか?って思うくらいだけど、町の人々が踊ってるのが楽しくて、ドラマの内容はまったく覚えてないけどエンディングの時にはじっと画面を見つめていた記憶がある。


上京してラジオを聞き始めたころ、TOKYO FMの番組『アポロン』だったかなあ、と思って調べたら2015年2月19日でほぼちょうど1年前、その日のメッセージテーマが『年下の人に聞いてもらいたい1曲』だったから迷わずSeptemberを挙げたメッセージを送ったら読まれて嬉しかった。「なにかハッピーな出来事があった時に聞くべき曲っていうのを人間誰しも持っておいたほうがいいと思うのでぜひ年下の人に~」みたいなこと書いたらパーソナリティの斎藤美絵さんが「この子22歳でこんなメッセージなの!?どうしたの何があったの!?」って笑ってくれてウワーラジオサイコーって思いました。いろいろあったんだよ22歳。


Septemberは、聴けば人種も政治も宗教も関係がなくなって万人が身体を揺らして手を取り合ってしまうような魔法みたいな曲だから、ここで私がこの曲の素晴らしさを語ることは野暮アンド野暮アンド野暮アンド……って感じに思えるのでもう何も言えない。とにかく私はこの曲がかかる空間で死んでいきたい。歌い出し"Do you remember?"で人生のうちのハッピーだったことだけを一つ残らずバッと思い出して目を閉じたい。本当はお母さんの膣から出てくる瞬間にも聴いていられたらよかった。あらゆるハッピーな場面で、砂漠でもジャングルでも岩の上でも池の中でも地球上のどこにいたとしても構わずにこの曲がその空間に響くべきだと本気で思っているのだ。

Ba de ya 完璧な素直な気分で
Ba de ya 金色の輝いた日々

菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から - YouTube

もし最後にSeptemberがかかるなら、その物語はハッピーエンドだと言い切ってしまえるようになる。例えば映画『ナイトミュージアム』のエンディングの多幸感たるや……。私の人生についても、いろいろ悲しいことはもちろんあったけど、Septemberを聴きながら死んでいけるならきっとハッピーエンドでしょう?

なんで私は今海にいないんだ?

去年の12月に体験して以来、スキューバダイビングにどハマりしてる。洗濯物を干してる時とか、職場への道すがらとか、海況が良さそうな風のない晴れた空を見たときには「なんで私は今海にいないんだ?」と思う。

初めて海に潜った日。慣れない水の中でもがきながら、慣れない器材を身につけて、慣れない口呼吸の練習をしようと水に顔をつけると足元を小さなフグが横切っていくのが見えた。かわいい、と思うと同時に水への恐怖が消えて乱れていた呼吸が整った。私の知らない生き物が沢山いるのだ、ここには。その雄大さを表す言葉は今の私の中にはないし、死ぬまでに見つけられる自信もなくて悔しい。生まれてから今までを地上で過ごしてきたはずなのに、あっという間に海に魅了されてしまった。なんだったんだ私の二十何年間は。二十代の若者によくある「留学して価値観が変わりました」を「そんなことで変わるような価値観しか育めなかったあんたの幼少期から思春期に意味はあったの?」と訝しんできたけど、そういう人たちもこういう気持ちを抱いてきたってこと?そして例えば虫に詳しい人は地上ででも人間と自然生物との共存に頻繁に思いを馳せたり、季節が巡るたびに生命の循環を感じたりしてる?夏の終わりにトンボが飛ぶのを見て秋が近いなあと思う程度の私は地上では鈍感で、だから一度海に潜っただけで雷に撃たれたみたいにビシャーンってなってしまったの?

周りの人に訊いてみると結構ダイビング経験者はいるけど、それも旅行で沖縄に行ったついでに〜ぐらいで、継続して通いつめてる人にはまだ出会ってない。あんな自然のおもちゃ箱みたいな空間を知っている上でよくのうのうと地上に居続けていられるな?って気分はあるけど、まあお金のかかるアクティビティだよねえとも思う。「今しかできない経験にペイしよう」を信条にお金を扱える人と結婚してよかった。なにかに心をとらえられて熱中して寝食をおろそかにしたことのある人間にしかわからない価値観を共有できている人間と暮らしているという安堵。三食食パンでもいいし寝不足で肌が荒れるとしても構わずに、読みたい本を読んでいたいし書きたい手紙を書きたいし描きたい絵を描いていたいし居たい場所に居たいし会いたい人に会いたいよいつだって私は。そういうのを阻害せず見守ってくれたり付き合ってくれたり手伝ってくれたりする人と結婚できてよかった。「やっぱり外出用の、化粧ちゃんとして、スカート履いて、ヒール履いて……ってしてる私の方が好きでしょう?」「それももちろんかわいいけど、家で髪まとめてすっぴんで眼鏡かけてる方が好きだし、かわいいよ」←これは2015年で一番ときめいた旦那との会話。この人となら何十年でも一緒に、ごはんを食べられる/話ができる/新しいなにかを始められる/同じ空間を無言で過ごせる/誰かの死を悲しんだ後にまたふとした拍子に笑える気がすると思って婚姻届に名前を書いた私は間違ってなかった。

珍しいものにはもちろん価値があるけど、珍しくないものにだってふたりなら楽しみとか綺麗さを見つけ出せるもんね。旦那の、ウツボとナマコにちょっかいかけてる私をじっと待っていてくれたり、笑ったような顔をしてる魚とずっと見つめ合って(最終的には魚の方から振られて)たり、海の中でも穏やかな振る舞いをするところが好き。

なんで私は今海にいないでこれを書いてるんだろうねえ。

ファック・ザ・ポリスな映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』観てきた

映画『ジャージー・ボーイズ』は60年代にヒットした4人組ロックバンド『The Four Seasons』の伝記的音楽映画で、本編の最大の見せ場、「“大切な人の喪失”からの復活」という場面に私はいたく感動したのだけど、よくよく調べてみると確かにその喪失はあったけどそのタイミングでは起きていなかったということが判明、つまり史実の順番を入れ替えることでよりドラマチックに仕立て上げられていた。なんだよクソ。

でもそれを観た後にふつふつと沸き上がった「音楽って最高だよね」というハッピーな気持ちとThe Four Seasonsへのファン精神は映画での史実の不正確さなんて無視して今も私の中にいつまでも消えないのろしみたいにくすぶり続けている。

もしかしたらそのドラマチック仕立てが盛り込まれなければこのハッピーとファン精神は沸き上がりもしなかったかもしれない。つまり伝記的音楽映画に史実の正確さを求めることはナンセンスなことなのだと思いついて今に至る。面白ければOK。


さて、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』。FBIからテロリスト扱いされるほど危ういリリックを刻むヒップホップグループ『N.W.A.』の伝記的音楽映画。面白かった。OK。超OK。彼らの楽曲自体をまったく知らなかったから、初めて聴くのが映画館の音響でなんてラッキーだな程度の心持ちで足を運んだのだけど、ドキドキとハラハラとゲラゲラとシクシクがちゃんと用意されていてなるほど“歴代の音楽映画の中でNo.1の興行収入”。ヒップホップに興味無くても楽しめそう。


映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』特別動画

でもファックザポリスとか歌えちゃうほどの怒りもとい被差別者意識を感じた経験が私には無くて、なんだろう、「そんなに怒るなよ~」と常に居心地が悪かった。実感が湧かないというか。どうしてもどこかスクリーンの向こう側の世界なんだよなあ。

シドニー空港で通路にスーツケースを置いていた私にソーリーと言いながら身体を避けてくれた白人男性が、3歩先のベンチに座る黒人カップルのスーツケースを蹴り飛ばして無言で歩いていった時、黒人の彼は白人の彼の背中を睨んで見送った。私驚いてしまって助けもせず叫びもしなかった/ただ恐くて逃げました/私の敵は私です(by中島みゆき)。在日日本人とかいう平和ボケしたタイプの人間。

映画で、物別れしていたアイス・キューブにイージーEが仲直りをしに行く場面。イージーEがアイス・キューブのソロ曲を褒めると「子供向けな曲だってラップでdisってなかったか?あ?」と凄むアイス・キューブに「実は俺、子供向けな感じって好きなんだよね」と返したのに私は笑ったんだけど、この場面に限らず、N.W.Aのメンバーが誰かに話しかけられる度に殺気を出して相手をいぶかしむのもそういう常日頃からの被差別者意識から来てるものなの?それとも映画特有の演出?いちいちあんなウィットに富んだ返しをしないと話すらしてもらえない感じ……。


で、鑑賞直後は「N.W.A、格好いいのはわかったけど楽曲自体は強すぎて好かないわ……」と熱気に当てられてげんなりしてしまったのだけど、Apple Musicで彼らの曲を漁ってみたら全然聴けて不思議。英語に疎いおかげで歌詞も気にすることなく聴ける(←悲しい)。洋楽ヒップホップいいじゃんいいじゃん!Dope Man超かっこいいじゃん!結局「音楽って最高だよね」というハッピーな気持ちとN.W.A.へのファン精神が沸き上がったのでオールOK。


N.W.A. - Dope Man


映画中でもよく使われる、例えば「それめっちゃドープじゃん」という台詞での『ドープ』は私にとって初めて耳にする言葉で、まあ『ファンキー』とか『ロック』とか「格好いい」のヒップホップ界隈のスラングかなと推定しながら観ていて、それで合ってはいたんだけど改めて調べたら「意味:麻薬」とも書いてあって、こういうところにまで麻薬が関わっているんだねと笑った。何をどうしたらそれを格好いいって意味で使おうと思うんだろう。

映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? 石野卓球とピエール瀧』観て無事に電気グルーヴのファンになった

電気グルーヴのドキュメンタリ映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? 石野卓球ピエール瀧』、こんなに楽しいドキュメンタリは初めてで、一日経った今も余韻がずっと残ってる。

ドキュメンタリというのは限りなく真面目に史実を語ることに注力されたもので、ともすれば抑揚のないナレーション付きの資料スライドショーになりがちで、相当の好奇心を持たない視聴者は退屈に……という印象を多くの人が持っているだろうし、違わず私もそうで、心配していたのだけど杞憂だった。この映画は紛れもなくエンターテイメント!
電気グルーヴ関係者のインタビュイーは茶目っ気たっぷりな本音を暴露してくれるし、石野卓球ピエール瀧の下ネタのやりとりをピー音無しで流してくれるし、ちゃんと笑いどころが計算されている。ポップで下品で、でも一緒に踊らざるをえないという電気グルーヴらしい魅力を余すことなく伝えてくれる。
画面の見せ方もうまくて、例えば、アルバムアートの紹介時の背景がそれに関連した/連続した絵柄にされていることとか、ギリギリうるさくないスムーズな画面切り替えエフェクトとか。ドキュメンタリ特有のお堅い感じを排除するような。
電気グルーヴについての認識は「ピエール瀧がいるテクノ?グループ?バンド?」「ピエール瀧は映画『凶悪』のヤクザ役がめちゃくちゃ怖かった」ぐらいで、つまり予備知識(ほぼ)皆無でこの映画に臨んだのだけど、おかげで退屈することなく観賞できて、もう長年のファンでしたってくらいの親しみを彼らに抱くことになる。

ヒット曲『Shangri-La』について。

Shangri-La

Shangri-La

映画でも、制作側の「これやばいんじゃねえの?売れるんじゃねえの?」という目に見えない熱量を表現しようと解説に結構な時間が割かれていて、元来のファンの人はリリース時期的にもそろそろあの曲のことだろうなと予想をつけられたのだと思うけど、私はその時まりんさんのインタビューにぼーっとのめりこんでいたら『Shangri-La』のMVが流されてサビに至った瞬間にああこれ聴いたことある!、電気グルーヴの曲だったんだ!?と衝撃を受けた。本当に予備知識皆無だった。

ラストの『N.O.』に(これはとても陳腐な言い回しなんですが)泣いてしまった。

N.O. 2016

N.O. 2016

本編が終わった後の、電気グルーヴすごいなあ、でもいろいろあったんだね大変だったんだね、って気持ちと、『N.O.』の"すべてにバーナム効果を狙いました"って感じの歌詞がかっちり共鳴する。

いまいち足がかりがなくて電気グルーヴを知らずに生きて来た私みたいなド素人にも、25周年おめ〜という長年のファンにも楽しめると思われるので各位ぜひ劇場に観に行っていただきたく。音楽映画は劇場で観るのが一番だよねえ音響的に。電気グルーヴの楽曲、Apple Musicにあるので映画の予習も復習もできて便利。