愛が偽善的で自虐的だった僕らの心をすっかり変えてしまったよね
君は覚えてるかな、9月21日の夜のこと。
モーリス・ホワイトが死んだ。
療養中なのを知っていながらもいつか彼の立つEarth, Wind & Fireのステージを観たいと淡い期待を抱いていたので悲しいけど、悲しさよりも今は「なんで私はモーリスが元気な時代に間に合うようにもっと早く生まれてこなかったんだよ」という自分への理不尽な怒りの方が大きい。エリザベス・キューブラー・ロスの死の受容のプロセスでいうと(自分の死についてのプロセスだろうけど他人の死に対しても適用できると思うんだよな)第二段階。おそらく第三段階の「取引」は私にとって2月の末に行われるアルマッケイ・オールスターズのライブで彼らの中にモーリスの影を探すこと、で、やっぱりここにモーリスはいないもんなあって第四段階を過ごして第五段階に移るはず。
ジャズマン菊池成孔がEarth, Wind & FireのSeptemberについて語った時の数分間がクールなことこの上なくて時々狂ったようにリピートする期間がある。
菊地成孔の粋な夜電波-2011年09月18日-最後の曲紹介から
えー、特にこの歌詞の中で、…あのなんつったらいいんですかね…祈りのように何度も繰り返される「Ba de ya」という言葉の意味は何なのかは、長い間ファンの間で取り沙汰されてきました。アラブ首長国連邦のアルフジャイラという海岸線上の国にある、世界最古のモスク・バディアモスクというのがあるんですけど、そのイスラム人ですね、その名前だという説。伝説の魔法使いの託宣であるという説。メンバーの娘の名前であるという説、などなど…。え、しかし最も有力な説は、現在ですね、研究家の間では「単なる衝動的なかけ声だろう」というもので、アタシもそれが最も素晴らしいと思います。
満場一致で「そうだよね!」って拍手できるこの説明の後に歌詞の和訳が朗読される流れにはもう耳を傾けるしかなくない?
胸がドキドキして 夜通しダンスを踊っているうちに
ふたりの魂は いつのまにか同じキーで歌っていたよね
胸がドキドキするたびに菊池成孔さんが朗読するテンポそのままにこのフレーズを思い出してニヤニヤしてしまう。人間の胸って本当にドキドキするものなのよ。
宇宙の宝石箱のような輝きを放つこの素晴らしい曲を、
9月に耐え難いトラウマを持っているすべてのアメリカ人、
そして、この番組をお聞きの、今年の9月を生きるすべての国籍の、
今年の9月を生きるすべての人々…
希望に満ちているであろう、あのジャズバーの学生たち…
懲役太郎さんにも、中山千夏さんにも、
すべての人々に捧げて今週はお別れしたいと思います。
私が初めてSeptemberを聴いたのは2002年、9歳の頃で、菊池成孔さんみたいにクラブで流れてきた~~~~な~んてドラマチックに言いたかったけどそんなことはなくテレビドラマ『続・平成夫婦茶碗』のエンディングテーマとしてだった。
9歳の頃なんて自我あったのか?って思うくらいだけど、町の人々が踊ってるのが楽しくて、ドラマの内容はまったく覚えてないけどエンディングの時にはじっと画面を見つめていた記憶がある。
上京してラジオを聞き始めたころ、TOKYO FMの番組『アポロン』だったかなあ、と思って調べたら2015年2月19日でほぼちょうど1年前、その日のメッセージテーマが『年下の人に聞いてもらいたい1曲』だったから迷わずSeptemberを挙げたメッセージを送ったら読まれて嬉しかった。「なにかハッピーな出来事があった時に聞くべき曲っていうのを人間誰しも持っておいたほうがいいと思うのでぜひ年下の人に~」みたいなこと書いたらパーソナリティの斎藤美絵さんが「この子22歳でこんなメッセージなの!?どうしたの何があったの!?」って笑ってくれてウワーラジオサイコーって思いました。いろいろあったんだよ22歳。
Septemberは、聴けば人種も政治も宗教も関係がなくなって万人が身体を揺らして手を取り合ってしまうような魔法みたいな曲だから、ここで私がこの曲の素晴らしさを語ることは野暮アンド野暮アンド野暮アンド……って感じに思えるのでもう何も言えない。とにかく私はこの曲がかかる空間で死んでいきたい。歌い出し"Do you remember?"で人生のうちのハッピーだったことだけを一つ残らずバッと思い出して目を閉じたい。本当はお母さんの膣から出てくる瞬間にも聴いていられたらよかった。あらゆるハッピーな場面で、砂漠でもジャングルでも岩の上でも池の中でも地球上のどこにいたとしても構わずにこの曲がその空間に響くべきだと本気で思っているのだ。
Ba de ya 完璧な素直な気分で
Ba de ya 金色の輝いた日々
もし最後にSeptemberがかかるなら、その物語はハッピーエンドだと言い切ってしまえるようになる。例えば映画『ナイトミュージアム』のエンディングの多幸感たるや……。私の人生についても、いろいろ悲しいことはもちろんあったけど、Septemberを聴きながら死んでいけるならきっとハッピーエンドでしょう?
なんで私は今海にいないんだ?
旦那とスキューバダイビングに行ってナマコと戯れたり海底に埋まってたビッグなマチ針(正体不明)に翻弄されたりしてたら一緒に潜ったインストラクターの女の子に「この夫婦には普段やってる一般的な、華やかな生物を見せるとかそういうガイドは通用しないんだと思いました」と言わしめて申し訳ない
— ゆきよ (@yky_sokkou) 2016, 1月 25
ファック・ザ・ポリスな映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』観てきた
映画『ジャージー・ボーイズ』は60年代にヒットした4人組ロックバンド『The Four Seasons』の伝記的音楽映画で、本編の最大の見せ場、「“大切な人の喪失”からの復活」という場面に私はいたく感動したのだけど、よくよく調べてみると確かにその喪失はあったけどそのタイミングでは起きていなかったということが判明、つまり史実の順番を入れ替えることでよりドラマチックに仕立て上げられていた。なんだよクソ。
でもそれを観た後にふつふつと沸き上がった「音楽って最高だよね」というハッピーな気持ちとThe Four Seasonsへのファン精神は映画での史実の不正確さなんて無視して今も私の中にいつまでも消えないのろしみたいにくすぶり続けている。
もしかしたらそのドラマチック仕立てが盛り込まれなければこのハッピーとファン精神は沸き上がりもしなかったかもしれない。つまり伝記的音楽映画に史実の正確さを求めることはナンセンスなことなのだと思いついて今に至る。面白ければOK。
さて、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』。FBIからテロリスト扱いされるほど危ういリリックを刻むヒップホップグループ『N.W.A.』の伝記的音楽映画。面白かった。OK。超OK。彼らの楽曲自体をまったく知らなかったから、初めて聴くのが映画館の音響でなんてラッキーだな程度の心持ちで足を運んだのだけど、ドキドキとハラハラとゲラゲラとシクシクがちゃんと用意されていてなるほど“歴代の音楽映画の中でNo.1の興行収入”。ヒップホップに興味無くても楽しめそう。
でもファックザポリスとか歌えちゃうほどの怒りもとい被差別者意識を感じた経験が私には無くて、なんだろう、「そんなに怒るなよ~」と常に居心地が悪かった。実感が湧かないというか。どうしてもどこかスクリーンの向こう側の世界なんだよなあ。
シドニー空港で通路にスーツケースを置いていた私にソーリーと言いながら身体を避けてくれた白人男性が、3歩先のベンチに座る黒人カップルのスーツケースを蹴り飛ばして無言で歩いていった時、黒人の彼は白人の彼の背中を睨んで見送った。私驚いてしまって助けもせず叫びもしなかった/ただ恐くて逃げました/私の敵は私です(by中島みゆき)。在日日本人とかいう平和ボケしたタイプの人間。
映画で、物別れしていたアイス・キューブにイージーEが仲直りをしに行く場面。イージーEがアイス・キューブのソロ曲を褒めると「子供向けな曲だってラップでdisってなかったか?あ?」と凄むアイス・キューブに「実は俺、子供向けな感じって好きなんだよね」と返したのに私は笑ったんだけど、この場面に限らず、N.W.Aのメンバーが誰かに話しかけられる度に殺気を出して相手をいぶかしむのもそういう常日頃からの被差別者意識から来てるものなの?それとも映画特有の演出?いちいちあんなウィットに富んだ返しをしないと話すらしてもらえない感じ……。
で、鑑賞直後は「N.W.A、格好いいのはわかったけど楽曲自体は強すぎて好かないわ……」と熱気に当てられてげんなりしてしまったのだけど、Apple Musicで彼らの曲を漁ってみたら全然聴けて不思議。英語に疎いおかげで歌詞も気にすることなく聴ける(←悲しい)。洋楽ヒップホップいいじゃんいいじゃん!Dope Man超かっこいいじゃん!結局「音楽って最高だよね」というハッピーな気持ちとN.W.A.へのファン精神が沸き上がったのでオールOK。
映画中でもよく使われる、例えば「それめっちゃドープじゃん」という台詞での『ドープ』は私にとって初めて耳にする言葉で、まあ『ファンキー』とか『ロック』とか「格好いい」のヒップホップ界隈のスラングかなと推定しながら観ていて、それで合ってはいたんだけど改めて調べたら「意味:麻薬」とも書いてあって、こういうところにまで麻薬が関わっているんだねと笑った。何をどうしたらそれを格好いいって意味で使おうと思うんだろう。