ギュッと五臓六腑

ドアをノックするのは誰だ?

誰かが‪「犬を飼って何不自由なく、犬がしたいことを全部させて育ててあげたい」と言うのを聞いて、あらあら殊勝な心構えねぇ、と考えたところでぎくり、あれ?
私が自分の実家の甘やかされてる犬を好きになれないのって、もしかして親が私に注いでくれるはずだった愛情を、代わりに犬が享受してるみたいに思えて、犬に嫉妬あるいは八つ当たりをしているからか?

と思ったけどちがうちがう、犬を躾けることは犬の健康や他人に迷惑をかけないことのために必要なはずなのに「こんなに可愛いんだから、欲しがるなら人間の食べ物でも何でも食べさせていいし、吠えたい時に吠えさせていいでしょ?」っていう自分の欲を抑え込まない父の態度がムカつくからだ。こんなに可愛いんだから、は父の主観で、そんなことは躾をなおざりにして良い理由にはならないのだ。

自分の親戚を優先し、頻繁に会いに行っていた父。親戚の家と我が家と、ちょうど同時期に自宅の電話機の調子が悪くなったとき、パチンコの景品で電話機を手に入れた父は迷わず親戚の家へと献上した。
その夜、機嫌よく帰ってきた父が寝た後に母が吐く悪態(『あの人は親戚に会いに行ける理由をいつも探してる』うんぬん…)と、それを聞く私と兄たち。いつも通りのクソなルーチン。

家庭より親戚を大事にしていたように見えたあの頃の父は、しかし、本当は「親戚を大事にしたい父自身」を大事にしていて、今は「犬に厳しい躾を行いたくない父自身」を大事にしている。そもそも子供を育てる器量なんてなかったのだ、彼には。

でもこんなふうに書きながら私は私自身を顧みて、泣く。
父に子供を育てる器がなかったのではなくて、私が子供として、人間として育つ器量をもたなかっただけなのではなかったか?
批判されるべき相手とは、生まれてくるべきでなかった相手とは、実のところ私の方だったのではなかったか?

「ちゃんとコントロールしていると思ってたし、ああいう日々は過ぎ去ったんだと信じてたんだ。けど時々さ、白か黒かはっきりしろよって状況があってさ、そういうときには怒りってものが完全に正当化された気になっちゃうんだよ」
—『スーパーマン、我が息子。』トム・ジョーンズ

解決したと思っていた、解決とまではいかなくても解消はされたと安心しきっていた問題が玄関のチャイムを鳴らす夜、私は震えてしまう。あのドアを開ければ簡単に打ちのめされることを知っている。