ギュッと五臓六腑

なんで私は今海にいないんだ?

去年の12月に体験して以来、スキューバダイビングにどハマりしてる。洗濯物を干してる時とか、職場への道すがらとか、海況が良さそうな風のない晴れた空を見たときには「なんで私は今海にいないんだ?」と思う。

初めて海に潜った日。慣れない水の中でもがきながら、慣れない器材を身につけて、慣れない口呼吸の練習をしようと水に顔をつけると足元を小さなフグが横切っていくのが見えた。かわいい、と思うと同時に水への恐怖が消えて乱れていた呼吸が整った。私の知らない生き物が沢山いるのだ、ここには。その雄大さを表す言葉は今の私の中にはないし、死ぬまでに見つけられる自信もなくて悔しい。生まれてから今までを地上で過ごしてきたはずなのに、あっという間に海に魅了されてしまった。なんだったんだ私の二十何年間は。二十代の若者によくある「留学して価値観が変わりました」を「そんなことで変わるような価値観しか育めなかったあんたの幼少期から思春期に意味はあったの?」と訝しんできたけど、そういう人たちもこういう気持ちを抱いてきたってこと?そして例えば虫に詳しい人は地上ででも人間と自然生物との共存に頻繁に思いを馳せたり、季節が巡るたびに生命の循環を感じたりしてる?夏の終わりにトンボが飛ぶのを見て秋が近いなあと思う程度の私は地上では鈍感で、だから一度海に潜っただけで雷に撃たれたみたいにビシャーンってなってしまったの?

周りの人に訊いてみると結構ダイビング経験者はいるけど、それも旅行で沖縄に行ったついでに〜ぐらいで、継続して通いつめてる人にはまだ出会ってない。あんな自然のおもちゃ箱みたいな空間を知っている上でよくのうのうと地上に居続けていられるな?って気分はあるけど、まあお金のかかるアクティビティだよねえとも思う。「今しかできない経験にペイしよう」を信条にお金を扱える人と結婚してよかった。なにかに心をとらえられて熱中して寝食をおろそかにしたことのある人間にしかわからない価値観を共有できている人間と暮らしているという安堵。三食食パンでもいいし寝不足で肌が荒れるとしても構わずに、読みたい本を読んでいたいし書きたい手紙を書きたいし描きたい絵を描いていたいし居たい場所に居たいし会いたい人に会いたいよいつだって私は。そういうのを阻害せず見守ってくれたり付き合ってくれたり手伝ってくれたりする人と結婚できてよかった。「やっぱり外出用の、化粧ちゃんとして、スカート履いて、ヒール履いて……ってしてる私の方が好きでしょう?」「それももちろんかわいいけど、家で髪まとめてすっぴんで眼鏡かけてる方が好きだし、かわいいよ」←これは2015年で一番ときめいた旦那との会話。この人となら何十年でも一緒に、ごはんを食べられる/話ができる/新しいなにかを始められる/同じ空間を無言で過ごせる/誰かの死を悲しんだ後にまたふとした拍子に笑える気がすると思って婚姻届に名前を書いた私は間違ってなかった。

珍しいものにはもちろん価値があるけど、珍しくないものにだってふたりなら楽しみとか綺麗さを見つけ出せるもんね。旦那の、ウツボとナマコにちょっかいかけてる私をじっと待っていてくれたり、笑ったような顔をしてる魚とずっと見つめ合って(最終的には魚の方から振られて)たり、海の中でも穏やかな振る舞いをするところが好き。

なんで私は今海にいないでこれを書いてるんだろうねえ。