成人までしたのに夜泣きがおさまらない

旦那が夜明けまで仕事から帰ってこなかったので悲しくて泣いていた。


"妻といえど"、ってま~た私は家庭におけるそれぞれの役割~~~みたいな幻想に捕らわれて正しく自分の意思を表現できていないんだから……というのはともかく、そういえばこの八方ふさがりの無力感には馴染みがあるなぁと思い浮かべるのは、父に虐げられ、兄たちに責められていた母のこわばった顔。


四捨五入すると0歳になれる年齢の頃、声を荒げる父が窓ガラスに母を押し付けたときのパリーン!シャラシャラシャラという音を聞いて以来、私はずっと、母のその状況を改善してあげなきゃ=せめて虐げられたり責められたりの破壊力や頻度を小さく/少なくしてあげなきゃ、とあぐねていた。

しかし母は愚痴を吐きながらも離婚届を役所に取りに行くことはなく確かにその状況に甘んじていて2日に1回くらいは父と笑い合って夫婦らしい雰囲気をリビングに充満させることもそういえばあったし、つまり最初から私のあるようなないような脳みそで考える改善への努力なんて必要無かったのだ!クソが!ゥワットザファック!誰があるようなないような脳みそだっつーの!

さて、ここで思い出すのは聖書の「互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行せよ」という預言者ゼカリヤのありがたいお言葉。別にクリスチャンってわけでもないけど、言葉としては正しそうだし、うーん、愛、愛、愛、ねぇ……。

誰かが苦しんでいるのなら助けなきゃ、と闇雲に思ってしまう自分のそういう性質を今まで生ぬるく"正義感が強すぎる"と言っていたのだけど、"被害妄想の他人への投影"というほうが適切な気がする。"愛ある"……うーん。無いかもな、と思う。
みんなそれぞれちゃんと……少なくとも自分が納得できる程度には考えて行動してるはずなので、私が誰かを「助けなきゃ」と思うのは本人から助けを乞われてからで十分だ。おせっかいは愛じゃないぞ。

でも「今の自分には助けが必要だ」と気づけないほどに疲弊させ続けられてしまった人間の、すべてが手遅れになってしまった時、その時に私が抱くであろう後悔を、私はどうやって処理したらいいんだろう?

というふうに実のところ私は未来の私の心配だけをしていて、助けようとしている相手というのも、他の誰かではなく私自身なのかもしれない。

「心配してるよ」をチラチラと示すだけで良かったんだろうな。旦那に対しても、お母さんに対しても。私の好きな人たちは勝手に潰れるようなヤワな人間ではないのだと信じてあげられたらそれで良かったのだ、本当に。愛っていうのはそういうさーなんかさー静かな感じのさー。ふとしたことなんかじゃ絶対にブレないような感じの。

ぐすぐすと鼻をすする私を見る旦那の目はまっすぐで、ボソッと「ゆきちゃんを泣かせるくらいなら仕事なんかどうでもよくなってきた」なんてことまで言ってくれちゃう。あーそういうさー私や私の感情を物事の中心に置いちゃってさー。これからもそんな感じでブレないでいてくれるならそれは愛なのでは?

弱い私はすぐに泣くし、うまく振る舞うこともできないし、なんというか、救いたくても救いようが無い。相変わらずバカねぇ。