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親にも兄にももっとうまく生きてほしかった。苦しいならば逃げてほしかった。嫌ならば拒んでほしかった。仕事、生活、家族関係を含む人間関係、あらゆることを気軽に拾ったり捨てたりしてほしかった。ひたむきさは必ずしも善ではないのだと気づいてほしかった。自分の理想と世界のありかたの違いに刃向かわずに納得して身を引いてほしかった。とにかく楽になってほしかった。私がこの家に火をつければそれで丸ごと解決する気がしていた。不完全な家族に納得できない私ごと消えてしまうことが世界のためになると思ったのでした。

実家でどう振る舞えばいいのかわからない。あの頃と同じように父と母と兄の仲を取り持とうとすればいいのか。それがうまくできなくて悲しかったなぁ。あの人たちに対して私ができること本当に何もなかったなぁ。ずっと一緒に暮らしてきたんだから、私ならあの人たちになにかいいものを与えられると思ってたのになぁ。

父親が言った「こんな娘より言うことをきく犬の方がよっぽど可愛い」がずっと忘れられない。私が父親の言う通りにちゃんと動いていれば、父親はニコニコで母親に当たり散らすこともなくて機嫌のいい母親に兄たちもニコニコだった?全部私が悪かった?まだその可能性が捨てきれない。こんなの一生捨てきれない類の後悔だ。父も母も兄もきっと私より先に死ぬのに、私だけが、選ばれなかったチケットに憧れ続ける。

私が幸せになることが一番の親孝行だよってみんな言うけど、父親も母親もそもそも私に結婚なんてさせずに一緒に暮らしていてほしかったのではないのか?それを断る権利が果たして私にあったのだろうか?育てられた恩ってやつはどこまで有効なのだろう?

午前5時に水辺で飲む缶コーヒーのおいしさを君は知っているか

こちら、 釣り Advent Calendar 2016 18日目の記事です。現役ではないけれども「釣りと私」をテーマに一筆。

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1. 豪華な魚のエサ

小学校低学年の夏休みは、祖父と父と兄と私の4人で池や沼に釣りに車で出かけていた。

片手で数えられるほどの年齢のいたいけな女児が釣りというアウトドアアドベンチャーに同席するにあたって最大の難関は生きエサ、もといウネウネした生き物である。例えばユムシユムシを知らないからといってGoogle検索をするのは止めておくのがよろしい。You should 無視、ユーシュッドムシ、略してユムシ。これがユムシの名前の由来である。嘘である。

幸運なことに、祖父や父のするヘラブナ釣りはジャガイモに魚が好みそうななんらかの成分を混ぜこんだ練りエサを使うし、兄のするブラックバス釣りはルアーを使うしで、私はウネウネクネクネモニモニキモチワルイ生きエサというものに対峙する必要はなかったのだった。

練りエサの存在を知っているせいでマッシュポテトをつくっているとヘラブナの生臭さを思い出すし、ポテトサラダに対する評価も「豪華な魚のエサ」なのだけど、他者に嫌われそうなので人前で言ったことはない。

2. 世界の終わり

石川県のK潟という干潟に連れていかれる日はなぜか決まって曇天で、昼間でも薄暗くて、土地の性質なのか常に湿った砂利道は踏みしめるとにちゃにちゃと音がする。釣り人もパッと見では全然いなくてファンタジーで見る世界の終わりの風景みたいだった。

近くにあった、土ぼこりが店中に舞うそこそこ広い釣具屋。これもまた世界が終わりかけてる最中に荒涼とした土地で細々と商売をしてる感があって、どえらい場所だな、と幼いながらに戦々恐々。

もしかして富山県民の私が抱く石川県に対する「石川県なんてなぁ!」という“コンプレック
to都会・金沢from富山県民”はこれが原体験なのだろうか?
新幹線駅・金沢とかって調子乗ってるけど発展してるのは金沢駅前だけでちょっと外に出たら全然田舎だしそもそも駅周りだって大したもんないでしょうよ的なあれは、そういう?

3. 白くてでかい鳥

一番よく行っていた、富山県のY池のコンクリートで整備された足場は魚巣ブロックといって魚が棲めるように空洞が開けられていて、そこに練りエサをつけた糸を垂らすとブルーギルがぽんぽこ釣れる。本当に垂らせば百発百中で釣れるのでぽんぽこって感じなのだ。

ブラックバスしかりブルーギルしかり名前ほどブラックでもブルーでもなくてグリーンじゃん、と思いながら、釣ったブルーギルは自分の背部に投げる。日の下にブルーギルを晒しておくとサギだかなんだかの白くてでかい鳥が食べに来るのだ。

白くてでかい鳥は神々しい。
反してブラックバスブルーギルも害魚。食害の罪は重いらしくキャッチした彼らは三途の川にリリースするよう推奨されている。

ブルーギルを釣っては白くてでかい鳥に献上する私はさしずめブルーギル専門ジャック・ザ・リッパー。ようよう、おまえら可愛い顔してるけど鳥に喰わせちゃうぜ。ぽんぽこ、ぽんぽこ。

4. エメラルドマウンテン

夏休みの平日、父が仕事の日は、兄は家から一時間半かけて自転車でY池に通っていた。私も同じく自転車で一時間かけて国道8号線を上り下り県立図書館に通っていた。

遠いとは思わなかった。あの頃、自転車に乗りさえすればどこにでも行けると思っていた。
今だってどこにでも行けるけど、日焼けや人目、交通手段による効率の悪さを無視して自転車に乗るには、それらを気にしないように気をつけなければいけない。知らず知らずのうちに、努力が必要な部類の行動になってしまった。私は大人になった覚えはないけど、あの頃と同じように子供で居続けているわけでもない。

二人並んで竿を並べていたはずの祖父と父の間に昔から確執があることを母から教えられたのは私が十代になってからで、そういうことは自我が芽生えた時点で先に教えておくか、もしくは一生教えないかで徹底してくれよと戸惑った。

教えるなら教えるで思春期の多感な時期にやめろっつうの、と祖父・父・母の全員が他人みたいに見えもしたけれど、釣りという共通の趣味が祖父と父の間をぎりぎり橋渡していて、兄と私が無邪気にそれを眺めていられた時間の存在は、けして悪いことではなかったよな、と今では思う。

午前5時、池の向こう岸に茂る木々のシルエットと、薄曇りの空にぼんやりと光り始める朝日。霧で白く煙った水面に魚の影を待ちながら飲む缶コーヒーのおいしさは何物にも代えがたい。

今もコーヒーを飲む時に植物や土の気配を感じる瞬間があるのはきっとそのせいで、スタバのキャラメルマキアートも喫茶店のサイフォンで淹れたホットコーヒーも大好きだけど、あの頃のジョージアエメラルドマウンテンの味がずっと私の中では特別なのだ。

5. 兄とダンボール箱

さて、当時の兄と私で揃って愛読していたのが、コロコロコミックで連載されていた釣り漫画『スーパーフィッシング グランダー武蔵』。

この漫画の影響力といったら絶大で、ルアーを狙い通りの場所に仕掛ける練習として床に小箱を置きその中に落とす……という釣り業界でいう“素振り”の方法を兄に教え、家の廊下に点々と謎の段ボール箱を置かせ、私たち家族がリビングからトイレに向かうのを阻害させたり、魚を水に上げる瞬間に「フィーッシュ!」と叫ぶ習慣を兄に植え付けてくれたりした。

かくいう私も魚を釣った瞬間は口に出さずとも心の中で「フィーッシュ!」と呟いていたし、成長し今は叫ばなくなった兄もきっと同じように外には聞こえない「フィーッシュ!」を唱え続けているのだと思う。多分。いつまでも子供っぽいところあるからな、あいつ。

最近観た映画『ブルース・ブラザーズ』『この世界の片隅に』

ブルース・ブラザーズ

俊敏なデブと無口なノッポの兄弟がバンド結成してわちゃわちゃする映画。R&Bの名曲達のmixをミュージカル風のMVで観てた気分。立川シネマシティの爆音上映で観て良かった……!

ジェームス・ブラウンに似とるやつおるなと思ったら本当にジェームス・ブラウンだった。あいつ、あんなチャーミングな演技ができるのか!人格ぶっ壊れてるし映画に出てたことに驚き。

その他、映画に浅薄な私でもスタッフロールで見たことのある名前を見つけられてわいわい。レイ・チャールズとかツィギーとか。そしてこの映画は莫大なお金かかったんだろうなとぞわぞわ。

曲が毎回楽しい。特にショッピングモールでカーチェイスしてる時の『I Can't Turn You Loose』と、レストランでの『Think』。

どっちも知ってる曲だったのかなーフルで聴いたの初めてな気がする。もしやオリジナルがこの映画なの?"I Can't Turn You Loose" is a song written and first recorded by American soul singer Otis Redding.とのことなので違うな。Thinkも違うな。『I Can't Turn You Loose』、ラジオのジングルかなにかで使われてた気がするんだけどなんだっけ。

この時代のR&Bバンドの曲もっと知れたら幸せになれる予感がある、『Can't Take My Eyes Off You』もそうだし、掘るべきは60年代のビッグバンドとかロックかなぁ。

終盤のエレベーターのシーン、静と動の対比ギャグでまた『ナイト・ミュージアム』を思い出す。いやー『ナイト・ミュージアム』も『ブルース・ブラザーズ』もエンターテイメントの傑作よねぇ……。

カーチェイスシーンのたびにヒーッ怖!はよ終われ!てなってしまうのは私が自動車免許を持ってないうえに結構な頻度で車を運転する悪夢を見てしまうからだということに思い至ってげんなり。自分がどんな悪夢を見るかなんてこと数えたくなかった。

この世界の片隅に

説明的ではない創作物って貴重で、特に戦争映画は押しつけがましいくらいに平和だなんだを唱えてくるから苦手なんだけどこれは戦争がテーマなだけの紛れもないエンターテイメント。

映画の中で「その映画を通して伝えたいこと」を直截的に語るのはあまりにも馬鹿げているなと常々思っている。

極論を言えば、例えば「戦争は良くないです」を主張したいならプラカードに同じ文言書いて道を練り歩いたらいい。でもそうしたくないから映画という手段を選んだんじゃないの?映画という手段をわざわざ選んでおいて、キャラクタに「戦争はよくないです」って喋らせるのは本末転倒じゃない?「戦争はよくないです」っていう一言では到底伝えきれない事情/雰囲気を長い長い物語をつくることで表現したかったんじゃないの?

なにかを語る時それを的確に伝えるために物語が必要になる、というのは私の大好きな小説家である舞城王太郎がたびたび作中で言っていて、というかたぶん彼が一生向き合い続ける大きなテーマのひとつ。『この世界の片隅に』に対して私はうんうん舞城の言っていた物語ってやつがまたこの世に生まれたねと感激する。

ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。涙を流してうめいて喚いて鼻水まで垂らしても悲しみ足りない深い悲しみ。素っ裸になって飛び上がって「やっほー」なんて喜色満面叫んでみても喜び足りない大きな喜び。そういうことが現実世界に多すぎると感じないだろうか?
―『暗闇の中で子供』舞城王太郎

言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上に苦しむことのできるもの、それが物語だ。
―『暗闇の中で子供』舞城王太郎

例えば柿緒が逝ってから僕が発表した短編『光』なんかは日常の延長としてくだらないことが起こったりつまらないギャグが挟まれたりバカバカしい間違いをいろいろやっちゃったりしているはてにも不意に死は訪れたりする、ってことや、あるいは逆に死が待ち構えている時間の流れの中でも人はやはり日常の延長としてくだらないこと、つまんないギャグ、バカバカしい間違いをしてゲラゲラへらへら笑ってたりするのだ、ということを書いていて
―『好き好き大好き超愛してる。舞城王太郎

「戦争はよくないです」を語るために『この世界の片隅に』は戦争の最中を暮らす人々を描く。キャラクタが戦争の是非を語る場面なんか一切ない。そんなことを口に出せばすぐに非国民となじられる時代だったらしいから、実際もそうだったのだろうと思う。「誰の口からも聞かれなかった」という事実が、今の時代の私になによりも雄弁に語る。人々を脅し震えさせ怖がらせるんだから戦争なんて良くないぞ、と。

すずが泣きながら言うあのセリフ(ネタバレしたくないので書かないぞ)は、戦争を続けていたかったのに、という好戦的な意味で言ったのではなくて、大事なものを失ってでも耐えてきた私の覚悟は一体どうしたらいいのか、という憤懣だった。義母も義姉もあっさりと敗戦を受け入れたように振る舞っていたけどもちろんそんなことはなくて、みんな心のうちはすずと一緒だった。国にとっては「負けましたハイ終わり」だけど、人々が失くしてしまった大切だったなにかは二度と帰ってこないのだ。

ところでこの映画のラジオCMのすずのセリフ喋ってるの、綾瀬はるかに聞こえませんか。綾瀬はるかまた朝ドラでも出るのかなと思ってた。

あとラジオで町山智浩さんが喋ってたやつとても良かったのでぜひ。

町山智浩 『この世界の片隅に』徹底解説 http://miyearnzzlabo.com/archives/40487

ネタバレあるので観た後に読むのがおすすめだけど私は観る前に読んで観た後にも読んでハッピーだった。

最近観た映画『溺れるナイフ』『フラッシュダンス』『アメイジング・スパイダーマン2』

溺れるナイフ

メイン4キャラのキャストがぴったり。上白石萌音ちゃん以外は学生役やるの年齢的にちょっと無理あるんじゃないのって感じだったけど。

上白石萌音ちゃん演技うまい。『ちはやふる』で感激したあの気持ちは間違ってなかった!

大友が可愛すぎて途中から大友×夏芽カップルを応援してた。あんなに微笑ましいカップルあるかよ……!大友の不器用な愛の言葉と、子供っぽいはしゃぎっぷりの同居を再現しててすごい。これがジャニーズの力……。

ところでコウちゃんはあの金髪をどう維持してる設定だったんだろう。日々自分でブリーチしてるんだろうか。健気だ。

原作漫画のファンなので実写化したって聞いた時はお決まりのごとくウゲーだったんだけど、いわゆる原作レイプではなかったと私は思う。
コウちゃんと夏芽は原作だともっとゆっくり愛情を育んでるのに……もっといっぱい子供っぽいとりとめのない雑談とか駆け引きとかしてるのに……エピソード足りなくて夏芽が情緒不安定な地団駄娘になっとるやん……って思ったし、長編の原作を切り貼りして短縮しました感は否めなかったけど、まぁいいんじゃないだろうか……。「溺れるナイフ観た?どうでした?」って聞かれた時とりあえず「良かったよ」って言えたし……。

漫画ではできない、映像だからこそできる表現を追求した映画で、特に火祭の厳粛な雰囲気が良かった。火祭の原案?の、作者が「この映画を見て漫画で火祭を扱いました!」と言ってた映画があるらしいと聞いて、わ〜ジョージ朝倉っぽ〜いとなった。映画好き、かつ、それを漫画に反映させられる少女漫画家、稀有な存在。

フラッシュダン

1983年に公開されたアメリカ映画、とのこと。観てよかったー!なんだよクラシックかよと侮ることなかれ、画質も字幕もジャギがすごかったけど関係ないものなのだなぁ。

レックス格好よくて可愛いくて、あんなふうにニコニコとシクシクを繰り返しながら、一喜一憂というのか、そんなふうに私も日々を過ごしたいよ。女優さんの顔が整いすぎてていちいち呆然としかける。窓割るの、ヒステリーって感じだけど向こう見ずで可愛いかったと思います。

劇中の何度かのダンスシーン、どれも見惚れるんだけど、それでもやっぱり最後のダンスに最高潮に痺れる。ジェニーのスケートを取り入れてるのが友情を感じて堪らん。

ジェニーの父親のセリフ「あれだけ高くジャンプできたんだから上等だ」が、慰め方として大正解で、結果がどうであれ私は認めてるよってことで、優しい父親だなぁと涙ぐむ。「20年前の君にそっくりだ」、こんな、嫁も娘も同時に褒めてくれるセリフなかなか言えないよ〜いい男だ〜頑固だけど〜。

アメイジングスパイダーマン2

スパイダーマンシリーズ初めましてだった。劇中で市民に愛されまくってる設定で、だから現実世界でもスパイダーマンのコスプレしてる人間が多いのかと納得。創作の公式で愛され設定なキャラは現実世界でももちろん愛されるはずだからコスプレへの敷居を低くするんだと思う。
しかもスパイダーマンに関してはマスク被るだけで成立するから、そういう場面では「いやこれ急いで普段着に着替えたスパイダーマンのマネだから!だからマスクだけ被ってるんだよ!」とかってゲラゲラしてほしいんだろうけど、実際にそういうケースに遭遇した経験があるのだけど、その時スパイダーマンを一作も見たことがなかった私にとっては何も気の効いた反応してあげられなくて辛かったんだよな……。
コスプレなんて公共の場でも好きにしたらー派だけど、それを嫌がる派の人はそういう「なんやねんあれ」の対処が苦手だからなのだろう。色々な種類の人間がいる。

主人公の顔、最初から最後まで全然イケメンに見えなくて、特にイケメン設定だったわけでもなかったみたいだけど勝手に申し訳なくなってしまった。普通の、三枚目の青年が実はスパイダーマンなのでーすっていうのが面白いんだよね?ね??こんなふうに正解の解釈をなぞりたくて映画を観たいわけじゃないのに!自尊心が低くて!ちくしょう!

逆放物線を何度も描きながら街のビル群の中をひょーいひょーいと渡っていくスパイダーマンはさしずめ都会のターザンだった。爽快だった。3Dで観たかったな?シリーズものを観るなら一作目から観たいしとか言い訳してる暇があるならその時間を映画館に足を運ぶために使うべきだ。

エレクトロ?だっけ?敵役、青色で、スパイダーマンと対比になってるの、抜け目がなくてニヤニヤ。アメコミはこんなふうに常に記号的でわかりやすいのかな。英語圏の漫画のwoooooowみたいな書き文字に慣れなくてまともに読んだことない。

友人カップルが結婚するのでキーカバー作った

友人カップルが結婚するとのことでめでたい。彼らが一緒に住む部屋では猫が飼われており、ごはんを食べられる猫カフェとしてよくお世話になっていて、お礼もこめてお祝いのしるしにキーカバーを作って渡した。

キーカバー、私と旦那も、私のつくったものをおそろいで持っていて、無意識に毎日使えるという点でよい。おそろいだからといってこれ見よがしに他人に見せつけることもない。キーカバーはあってもなくても構わないもの……アドオンなものだから、生活を劇的に変えるわけでもなくて導入に易しい。実家でレザークラフト始めるにあたってハンマーの音で家族に迷惑をかけることがわかりきっていたので、まずは家長、私の場合は父親にキーカバーをプレゼントして媚を売っておくというライフハックを実行した過去もある。工程も短いし初心者でも作れて、かつ、周囲に媚も売れる作品No.1、それがキーカバー。

猫好きカップルなので猫モチーフにしようと思いつき、猫のあのずんぐりむっくり愛らしい感じを鍵の上部にどう置こうか頭を絞る。彼らの今飼ってる猫たちを模するか〜と考えたけど、レザーで表現するには細かい模様だったことを思い出して早々に諦める。

「キーカバー レザー 猫」とかでぐぐって流し見、パクれそうなデザインを吸収するけど、レザークラフトに限らずあらゆる手仕事は設計図が共有されてもそれを表現する技術で追いつけないので、プログラミング業界のOSSに慣れてると、なんていうか圧倒的な実力差ってあるんだなぁ……とちょいちょい病む。

部屋の鍵が二つあるらしいとの情報を得ていたので、暗くなってから帰宅する時に二つの鍵の判別をわかりやすくしたい。シルエットで分けよう〜と考えたけど、同一のドアに使う鍵ならペア感を出したいし、わずかな形状の差異は逆に混乱させそう。レザーの感触で違いをつけることにする。

使ったレザー、赤くてざらざらしてるこれと、

茶色でつるつるしてるこれ。

ドローイングアプリで革と糸の色との相性を試す。やってみなきゃわかんないことが大半だけど積極的に失敗しに行くほど元気ではないので。若さゆえの過ちなど少ない方がよろしいのですよ。盗んだバイクで走り出さずに、校舎の窓ガラスも壊して回らずに大人になる方がよろしいのですよ。

型紙に起こす。

生首。

習作としてまずは適当な革で作ってみる。穴を開けるところにキリで目印をつけると三つ目の妖怪みたいになって怖かった。夢に出てきそう。

サイズ小さかった。無理矢理鍵を押し込んだので釣り目の猫になった。

一回り大きく型紙から作り直して本チャンやぞ!

作業に飽きたタイミングで写真撮ってる。

ちょうど白い糸を使い終わって飽きたんでしょうね。

できた。徹夜してめちゃくちゃ眠かった。先方と同型の鍵を入れてOKなのでオールOK。今回は同型の鍵が手元にあったからいいけど、一般流通させるキーカバーを作りたい時には最大公約数を取って設計するの超大変そうだな〜と取らぬ狸の皮算用。革だけに。ふふ。

みんな大好きラッピングタイム。

ギャー全然納まる気配がない。

分離させたい。

台風かよ。

納めて乗せてはみたものの「運搬中にもじゃもじゃ上を平行移動しそう」という危機感にさいなまれる。

そこらへんにあった厚紙とテープで雑に固定。

スリーブからはみだそうとするもじゃもじゃが憎かった。

で、箱を包んでイェイ完成。余ったもじゃもじゃはどうしたらいいんだ。焚き火でもするか。

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友人カップルが婚姻届を出すにあたって、私と旦那に白羽の矢が立ち、証人欄を二人で埋めさせてもらった。婚姻届は出したことあるけどこの欄を書くのは初めて〜とはしゃいだ。

婚姻届の証人の欄(と『応人の乱』で韻が踏める)というのは、お互いの両親の片方ずつだとか、カップルが成立するにあたって尽力した仲人だとかに書いてもらう場合が多いけれど、実は成人済みの人間であればカップルとどんな関係の誰であれOKらしくて、極論を言えば市役所で赤の他人を二人捕まえて書いてもらえば届出には何の問題もないらしい。市役所に来てるような人間なんて大抵は印鑑を持ち歩いているだろうし難しいことではない。

それにしても証人という名称ではあるものの、例えば離婚したって責任を取らされるわけでもなく、あの欄の存在意義ってなんなのだろう?少なくとも友達が二人はいないと今後の結婚生活はやっていけないよ、という忠告なのだろうか。余計なお世話すぎる。

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誰かのために何かを作る時の、目に見える世界のすべてからヒントを得ようとするあの感じも含めて物の値段は決められるべきだよなぁと思う。映画の予告でよく聞く『構想○年』という表現は過言ではなくて、四六時中、それをどうしたらもっと良きものに昇華させられるだろう、と探し求める時間を、プライスレスとは言い難い。確かに神経がすり減る感覚がある。庵野秀明とか、この種の苦労が人よりずっとやばそう。特に根拠はないけど。

最近観た映画『SCOOP!』『怒り』『何者』

3作ともタイトル短い。最近の邦画、短くしすぎでややこしいのでもっと「赤い公園」とか適度にアイデンティティ持ったタイトルにしてくれないと区別がつかない。

SCOOP!

予告の時点で絶対面白いと思ってたけどやっぱり面白かった……!

福山雅治、喋り方がもう「演技中の福山雅治の喋り方」というジャンルを確立しているよねって感じで、どんな役をやっていても福山雅治だな〜と常に頭の片隅にチラついてくるけどやっぱり画面に映える佇まいをしていらっしゃる。ドラマ『美女か野獣』でも今作と同じようにチャラ男×クール女のカップリングで好きだったんだよなぁ。

定子(吉田羊)、仕事の時はひっつめで、プライベートの時は下ろしてて、ってギャップが色気ありすぎ。

リリー・フランキー、いろんな映画にサイコパスとして出てる印象があって、今回もはまり役だった。安心できるサイコパス役者。クスリでキマってる演技が鬼気迫っててとても良かった。

にしても野火が襲われた廃屋?でチャラ源さんどこに潜んでいたの?

二階堂ふみさん、初めて動いてるの見たけどずっと宮崎あおいに似てて困る。若者っぽい喋り方、という演技なのかただの棒読みなのか最後まで判別つかなかった。濡れ場はもう少し尺短くて良かったのでは……。あんなにだらだら長い意味ある……?

怒り

暗い映画をレイトショーで観ると精神に来ますね。音楽が坂本龍一だったからクラシック効果で眠くなってしまう恐れがあった(実際に『レヴェナント: 蘇えりし者』で実証済み)けどまぁ大丈夫だった。ロケ地が沖縄で、見覚えのある場所が出てくると嬉しかった。

広瀬すず森山未來宮崎あおい松山ケンイチ妻夫木聡綾野剛、の3組のストーリーが良い意味と悪い意味両方で目まぐるしく展開する。なんかちょくちょくテンポ悪くて、あっもうそっちの話行くの?このタイミングで?っていうのが何度かあった。

妻夫木聡×綾野剛のカップルめちゃくちゃ良い。無愛想な綾野剛を可愛く思ってる妻夫木聡の甘い表情よ……。

「愛子が幸せになれるわけないって思ってない?(だから不吉な想像ばっかしちゃうんでしょ?)」ってセリフにギクッとさせられる。誰かを心配するという大義名分を掲げることって時々あるけど、心の底では相手の幸福な人生を信じてあげられてないだけかもねー。自戒だ。

ピエール瀧さん、相変わらずのリアリティ。ああいう不潔な刑事さんいそう。あと渡辺謙!This is 渡辺謙って感じの堂々とした演技!すごい!

描写に不備?不満?があって、特に終盤、バイブス下がってしまった。宮崎あおいの泣き姿、長くない?いいかげんに泣き止んでよくない?綾野剛の某仲間、ぽっと出で重要な解説するしなんなの?綾野剛は何から逃げてるの?○○出身なこと?ゲイなこと?妻夫木聡、喫茶店から出る時、カバン置いてっちゃってない?つーかとにかく宮崎あおい松山ケンイチ妻夫木聡綾野剛と関係者たちはコミュニケーションが足りてなくて誤解が招いた結果だろ、と思ってしまった。人間関係を描く映画でこれはそもそも論な気もするけど、もっといろいろ腹割って話したらそんなことにならなかったでしょ感があってイライラしてしまった。

犯人、サイコパスっぽいのに《怒》って書くかなぁ、もちろんいろんなサイコパスがいるとは思うけど、今作のは怒りをぶつけるというか天性の癇癪を我慢できずにぶつけるって感じのサイコパスだったし、あと最初から最後までセンテンスを殴り書きしがちな設定があったのに、《怒》って。違和感。

何者

学生時代に理系だった人は最初の方で「はいあなたはこれから観ること全部他人事です!」というアウトオブ眼中宣言されて肩透かしされる。そのせいかまったく心が動かされることなく観終えてしまった。

登場人物だいたい性格悪くて、この人となら友達になりたいな〜って人が菅田将暉山田孝之だけ。有村架純はわけわからんタイミングでキレる役で、他のひとのこと「ヒステリーになっちゃった」って形容してたくせに自分だってそうやんけ!となる。あと二階堂ふみの演じるリカがダントツ一位で友達どころか知り合いにもなりたくないうざさ。

Twitterが物語のキーとして使われていて、でも私はTwitterにヘビーに慣れているから「ああはいはいあるねそういうこと」で過ぎてしまった。Twitterライトユーザで、かつ、学生時代は文系だった人が観たら楽しめるのかしら。

クライマックスで演劇と映画の親和性って高いんだな〜すごいな〜となれたのは良かった。演劇を観に行きたくなった。俯瞰するのって結局のとこ逃避なんだよなぁ。

サイタマからアメリカに田舎ラップは響くのか 映画『SR サイタマノラッパー』

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埼玉育ちブロ畑育ち 山の幸とは大体友達

―俺らSHO-GUNG~サイタマノラッパーのテーマ~/SHO-GUNG


SR サイタマノラッパー』という映画を観たら今まで映画に抱いてた価値観が覆されてしまって震える。映画ってお金をかけなくても人を感動させられるのだ。あの有名な俳優が出てるとかCGがどうとかまっっったく関係ない。

サイタマノラッパーは上映が始まった瞬間にホワイトノイズが入りすぎとかマイクの音こもりすぎとか画質悪すぎとかタイトルロゴが斜体だし色合いも絶妙にイモいとかいろいろあるけど、そういうこと全部を忘れさせるくらいにストーリーが意識を引き込んでくれた。もちろん「お金をかけられてないからこそ価値がある」と言いたいのではないし、親にどれだけ教育費かけられてもろくでなしっているでしょう?

タイトル通り埼玉のラッパー=Saitama-no-Rapperの映画です。埼玉、と聞いてああ~何もないところねと印象を持っているのはたぶん間違ってない。埼玉の話をして・されて、広がった記憶ってある?私はないです。それほど何もない町、つまり田舎でラッパーとして生きるにあたってぶちあたる絶望が描かれる。

田舎出身ならわかるネタ、まずは車社会。主人公のIKKU(名前がイクミだからイック)は車を持ってないからだだっ広い田んぼ道を歩くし、流しのタクシーなんて走ってないし、仲間内で車を持っている奴はそれが親の車であろうと常に駆り出される。
次に建物事情。一戸建ての古い家屋ばかりで部屋も玄関も基本は引き戸。コンビニの周囲には他の建物はなく駐車場。
最後に村社会。噂は老若男女全員に共有される。誰々が出て行ったとか戻ってきただとかの「よそとうち」の感覚。先輩・後輩の上下関係。

田舎から東京に出てくると忘れそうになるけどマジでそういうもんなんだよね、田舎って。車を持ってないだけで市民権ないみたいだったもん。車なんか運転して日常的に人を殺す可能性を自分自身に持ち歩くのが怖くて免許も取らずに東京に出てきたこと、後悔はしてないけど、地元にいた頃の自分を思い出すとかわいそうになる。

そして田舎で一番キツイのは、親や友達から、しがないサラリーマンになることしか求められてないという点。それ以外の夢を持ってる人間にはこれが一番つらくて、だって常に耳元で「諦めろバカなことはやめろまともに働け」をささやかれてるのと一緒だそんなのは。実際に否定を口にしてくるのだ、あいつら。

劇中でもたびたび出てくるセリフ、「○○(地域名)だぜ、無理だろ」。夢って無理/無理じゃないって基準でもつものじゃなくない?毎日否定されてHP削られてしまうんだから叶うもんも叶えられなくなってしまう。そもそも「何かをし続ける」っていうのはそれだけでとても難しいことなのに、田舎ってだけでもっともっとハードルが高くなる。金銭的にも地理的にも人間関係的にも。今はインターネットがあるから敷居が下がったとはいわれるけど、それでも日々「これが都会だったらなあ」とへこまされてしまうのだ。

しかもIKKUが追いかけてる夢はラッパー。プロですら一歩間違えれば「ダサい」と形容されるジャンル。でも本当は田舎だからこそラップをするべきなのだ。楽器なんか弾けなくても音符なんか読めなくてもできる唯一の音楽。

ラストシーンの、ビートもなしに即興でラップをする、いわゆるフリースタイルラップのシーン。周囲からは揶揄され、軽蔑のまなざしを向けられ、それでもかまわずに届け響けと歌うあのシーンに、ラッパーという生き物の存在意義が詰まってる。

そしてエンディング、IKKUはこの曲を、本当はこんな形で実現したかったんだよなぁ。仲間だったと思ってた人はみんなどこかに行ってしまう。「捧げるぞTKDに」って歌詞だって、この地で夢を見続けることに協力してくれた相手への本気の感謝を込めたリリックだ。嘘でも冗談でもない。ましてや他人の目を気にして恰好つけるための言葉でもない。明るいトラックに乗せられた明るい言葉たちが、映画を観た後だととてつもなく切ない歌に聞こえる。

HIPHOPでわからなくなったらまずはググれ
それでも無理なら首くくれ

―俺らSHO-GUNG~サイタマノラッパーのテーマ~/SHO-GUNG

これでSHO-GUNG 全員集合で始まった今日だけのparty

―俺らSHO-GUNG~サイタマノラッパーのテーマ~/SHO-GUNG

もうこのエンディングテーマを最後に聞くためだけの長いミュージックビデオだと考えてもいいくらいに、この曲が心に響くし届く。映画館で観てよかったと心底思ってるけど、Netflixにもシリーズ全3作あるので、とにかく観て、泣いて、一瞬でもラッパーってかっけーなと感じてほしい。あっでも私もまだ2と3は観てないです。